昭和47年12月19日 朝の御理解
御理解 第60節
「おかげは受け徳、受け勝ち。」
おかげの頂く意味でと言った様な、感じがちょっとするんですけれども、決して頂き逃げじゃないんですけどね、所謂あの子供ん時に打ち起こしやら、ラムネん玉やらね、してもう勝ちます。だから勝ち逃げはでけんと云う訳です。そう言う風にそういう内容のものでは、もうさらさら勿論ありません。いけません、ね。おかげの所謂受け徳、受け勝ちと仰るおかげを頂き逃げする信者が、沢山おります。ね、
そりゃまあ、神様も悲しい思いをなさるであろうが、信者私共もそれは大変分の悪い事なんです。ね、おかげ頂いて例えばあの、頂き逃げというかね勝ち逃げしてですね、勝ち逃げ的信心そう云う様な意味ではない。おかげは受け徳受け勝ちというのは。今合楽で五つの願いと云う様な願い、もうその事に私はぴったりした御理解と思うですね。昨夜の月次祭のあとの御理解に、信心は親に孝行するも同じ事ぞと、親に喜んで貰いたい、安心して貰いたい、いくらでも親に楽になって貰いたい。
子が切に願う勿論親も、子供の幸せを愈々願わない親は居ません。様にその親と子が頼み合い、願いあいをさせて頂きながら、神様にお縋りをしていくという、是が親に孝行するも同じ事と仰る、そういう例えば心の状態で神様に向かう、ね、親に不幸したい親に心配させたいと思うておる者はありませんけれども、やっぱする事なす事が親の心配の種になったり、ね、親を苦しい立場に立たせたりも、それを親不孝だとこう申します。だからそういう人が、いかに信心を覚えても体得しても、ね。
所謂理屈の事を覚えても又、なら又一生懸命お参りをする、願行的な信心修行と申しましょうか、ね、それこそ日参り夜参りをしておかげを頂きましたにしてもです、そういうおかげは必ずね、おかげの頂きにげ的な事に決定を見ます。ね、おかげを頂いたものが受け徳にならなければいけません。おかげを受けたおかげが、所謂お徳にならなければ駄目です。それは私共信心させて頂く者の心情がです、ね、孔子が親を思うああいう切実心を持って、信心の稽古をさせて貰うそれが基本それが基礎になるのです。
今日此処に私座らせて頂いて、是はもう随分前だったでしょうか、是を机の上一番上に置いてあるんです。是はあの確か末永先生があの、神様に頂いた御教えなんです。三代金光様かなんかの教えらしい、こういった書いて頂いた感じなんです。親が助かり子供が安心、親が助かり子供が安心、子供が助かり親も安心で御座いますからと頂くね、親が助かると云う事は子供が安心、子供が助かると云う事は親も安心で御座います。
所謂親と子とが、愛よかけよで願い合い頼みあい、何を頼みあいするか何を願いあいするか、子供の幸せを願い親の幸せを願う。ね、そしてその願いが矢張り成就しなければ、子供が安心、親が安心ちゅう事になりませんよね。今朝私御神前でご祈念中に頂いた事は、テレビで白鶴という灘の酒があります、白鶴のコマーシャルをやってます。何とかという有名な女優さんが、白鶴白鶴願い酒という、コマーシャルやってます。ね、白鶴という酒は願い酒お願いをする時に、ね、願い酒、
だからその願わなければならない、けどもそれはあの白鶴というのはお酒の事、お神酒の事ですから、有り難き勿体無き、畏れ多きとこう仰いますね、三喜を奉れと仰る、神様が一番喜んで下さるのは、氏子の有り難き勿体無き畏れ多きだとこう、だからそういう有難い事じゃなぁという心で願う時に、それが願い酒と云う事、有り難いなぁというその心に、おかげがあるのですね。和賀心におかげはあると仰るのだけれど、それでは例えばおかげは受け徳、受け勝ちと云う事にちょっと反れる様です。ね、
昨日も申します様に親の心が分からなければ親孝行は出来ません。親が何を願い何を求めているかと云う事が分からなければ、親孝行は出来ませんね、まず第一にだから、親の心と、子供との心がです、交流しておらなければならない。何時も親子のいわば感情と言った様な物がね、思いが何時も交流しておらなければならない。そしてそれこそ親の思うておる事が子供が思うておる事が、手に取る様に見えなければならない。背中が痒いというなら、背中を掻いてやってこそ、始めて親の願いに添うた事になる。
ただ形の事だけ、はら按摩をしてあげましょう、足を揉んで上げましょうと言うてもです、はあこそばゆいから、そんな事もういらんちゅうちとば、押さえ付けてん腰をもんでやらんならん事じゃない。あそこそこと親が言う所を押さえてやったり擦すってやったりして、始めて親孝行。さそげなこつ言わんな私親孝行するけん、ちょいと押さえちゃあるちゅちから、てんでこうこうやってもう痛か、もう止めちくれちゅうごた事で、押さえて腰をもんでやると云う事が、親孝行じゃ無いと云う事。ね。
親の心が分からなければ親の思いに添う事は出来ない。親の思に添う事が親孝行。そこで私共が段々信心をさせている頂く中に、真の信心とは真の信心とはと、もう日夜その事に焦点を置いて、真の信心を求めておる。ね、いかに神様有難う御座います、と言うても、勿体無いと言うても、ね、いかに有り難そうに神様を拝み上げても、神様の御働きそのものを粗末にする様な事では、神様を大事にしておるとは言えないと言う所から、成り行きをいよいよ大事にさせて頂きながら、ね。
全ての事柄を神様の御働きとして、御事柄として頂いて行こう、もう真の信心はここに極まったと、私共は此処ん所に焦点を置いてそ云う修行をしてきたね、そういう信心が、いわば基盤になっておると云う事はどう云う事かというとですね、親孝行の情というか、思いを一生懸命つのらせてね、もっともっと親に孝行とか、親に喜んで貰うと云う事は是で良いと云う事はない限りがない。そういう止むに止まれない心がです、何時も自分の心の中に上向きの姿勢というか、そういぅ姿勢を取らせて頂いておるね、
そして分らせて頂いた事はです、教祖の神様の教えて下さる金光様の一信者としては、当然の事、当たり前の事としてです、此処の所が行じられなければならないと、ね、日参り運動とでも申しましょうか、ね、そういう運動が記念祭を境に、合楽のお広前にそういう雰囲気が出来、出て来た。しかも、その日参り的その信心によってです、ね、神様の心の、いうなら琴線に触れると信じられる願いと云う物が、立てられた。それが此処でいう五つの願い。ね、
神様の願いというのは、氏子信心してどうぞおかげを受けてくれよというのが、神の願いなのだ。ね、成り行きを大事にするとか、御事柄を大切にする事は、親の心が分からせ頂いて、ね、頂いたら頂いた程です、それが例えば苦しい事であろうが、痛い子おであろうがです、ね、それを有り難く合掌して受ける云う事が、神様の心のいわゆる、分かったもの、それも例えば一切を神愛として受けていけれるもの、そう云う物を私共は、こう稽古して来た。ね、
そして有り難い、勿体無いという心も段々でけてきて、その有り難い勿体無いに、いうならばおかげが頂けると、何かそれに腰掛けておった様な感じが、記念祭までの二十年間の信心じゃなかったろうかと思う。ね、そこでたまたま、阿倍野教会、ね、あの御ひれい、あの、生き生きとした教会の御ひれいの様子、状態をね、聞かせてもらうにつけてです、何処にその元がるかというのが私の、是は私のではなくて、神様があすこへ、お前の思うておる所へ、もう一つ奥の方へ此処があるぞと。
教えて下さったのが、阿倍野の信心だと思うです。阿倍野の信心だったら、いまの五つの願いといったのが、打ち出されておる訳じゃ無いけれども、あちらで、親先生に、あちらの親先生にお目に掛かったり、教会のご様子を見せて頂いたり、または、先生が五十年間掛かって色々とお話しなさった、その抜粋された所の、御教話など読ませて頂いておってです、いよいよ分からされた事が、五つの願いです。この願いというのは、私共の願いであって実は、天地の親神様の願いであった事に気付いたんです。ね。
氏子どうぞ家庭が乱れておっても良いぞ、どうぞ病気しても良いぞというのじゃ無くてです、ね、氏子信心して何を受けてくれよというかというと、何がなんと言うても元になるものは健康のだと云う事。体の丈夫を願えね、家繁盛子孫繁盛を願え家庭の円満を願えと、是が私共に思いをかけて下さる神様の願いである。そこで神様の願いがもっとおくに解らせて頂く所から、そういうおかげを引っさげていうならば、そういうおかげを元にして、ね、真実の御用のでけます、おかげを頂かせて下さいと願い、
天地の親神様の御神願である所の、神様の願いである所の和賀心時代を世界中に広めていこう、天下国家に、その事を広めさせて頂こうという、願いをさせて頂くと云う事になってです、ね、愈々神様の、愈々痒い所に手の届く、というのは此処の所を願って、此処の所を頂いたときが、神様が喜んで下さり、安心して下さるのである。ね、そこに親の喜び親の安心が、子供の喜びになり子供の安心になる。
所謂親が助かり、子供が安心と云う事になる。ね、子供が助かり親も安心で御座いますと、私共助かっておる姿をご覧になって、もう大丈夫この氏子はと云う事に、是が最高の親孝行。ね、私はおかげは受け徳、受け勝ちと云う事をです、ね、もう限りなく頂くと云う事です、受け勝ちとはもう是でよ御座いますと云う事じゃ無い。ね、ですからこう今申します勝ち逃げ的な、おかげを頂いておる人達が、どの位かあるか分かりません。ね、例えて申しますと、先日、永瀬さん所の娘ごが話されたというです。
もう私どんそげな信心な、早もう京都の烏丸教会んときお話は聞いとった。もう朝晩そげな事は、願いよる頼みよるね、体の丈夫を願え家庭に不和のなきが元、子孫繁盛家繁盛を願え、もうそりゃ金光様の信者であるならみんな知っとる事である。また実際願っておる事でもある。けれどもその願いと、今私が言っている五つの願いと、全然焦点が違うでしょうが、神様の心が分かってそう願うというんですから違うでしょうが、ね。
そういう例え、今迄の例えば願い方とは、その今言うその願いよるというだけの願いならばです、それは親の思いを分からずに、只自分よがりというかね、自分の身欲見とく身欲の為に願っておるというのですから、成程それじゃ本当なおかげにならんなあ、という証拠に沢山のお道の信奉者がそりゃ願い続けておるとこでしょうけれども、おかげを頂いてるふうふうはないでしょうが。ね、私が今言うておる事はです。
皆さんに聞いて頂いておる事はです、ね、絶対のおかげが頂ける、おかげが頂けん時には、まだ自分の信心が足りんという、その足りないという焦点をです、ね、今迄の考え方とは変わって来た。ね、やっぱりまだ一生懸命その焦点を間違えない祈りを祈らせて頂だいとるけども、これ一つ家内にも頼まなければでけない。是は夫婦でお願いしただけではでけんぞ、いっちょ是は子供にも頼もじゃないかと子供に頼むと云う様なです、ね、是はまだ信心が足りんのだと言う所を。
う言う風にして進めて行く押し上げてい行くね。信心は押し上げて行く。愈々今晩は前夜祭、明日は報徳祭ただ報徳祭、その報徳祭の事考えなければいけない。所謂二代金光様と三代金光様、いうなら昔は四神様の御大祭と申し上げておったのが、三代金光様もご一緒に、ね、合楽にとっては取分け三代金光様の御信心あったればこそ、お取次があったればこそ合楽の誕生があったんです。ね、それは何時も申しましとおり、三代金光様の願いがあったからこそ私の信心が、今日まで育って来とるとです。
ですからそういう九州の大恩人が四神様なら、ね、合楽の大恩人は三代金光大神様だと云う事になるのですから。そういう大変な金光様のお祭りに対する所の、そのお徳に応え奉ろうとというお祭りなのですから、私共がどう思いどう考えどういう姿勢でおかげを頂かなければならないかと云う事です。私その事を今日お願いさして貰いよりましたら、丁度あのげんや店かなんかのお芝居に出て来るあのお富さんじゃないですけれどもね、足をこう、粋な人達が座るあの立膝ですよね。
しかし横座りてり立膝してその洗い髪で、それこそツゲの横ぐしですまぁ粋な格好の所を頂いたんです。ははあ是は私をはじめ、合楽の方の信心の現在の姿勢だなぁと思いました。ね、皆さんが例えば、その髪を洗うたと云う事は確かにそうだ。けれども是をただ、成程あれは中々その粋なものです、ね、この女の洗い髪なんかと云う物は中々色気のあるものなんです。だからもうそれだけでです、それだけで只神様を引き付けよう、皆んなを引き付けようと言った様な、いわば横ぐし的なものでは駄目なんだ。
折角現しせて頂いたのであるから、是を結い上げさせて頂こうと言う所に、明日の大祭があるんです。所が合楽の場合は只洗い髪的、洗い髪だけで、ね、あとの締め括りという結い上げると云う事をしていない様な感じがするです。まず一つ座り直さなければいけない立膝じゃいけん先ずそれは、ね、あのお芝居に出て参りますお富という人は、あの実際に実録だそうです、がその洗い髪のお富といいイメージがあった程しに、洗い髪をただ捏ねただけで所謂ツゲの横ぐしが、似合う女だったそうですね。
ですからそれも中々素晴らしい、粋なんです。けどもそれでは、神様の心に添うと云う事にはならない。自分が気分が良いだけなんです。垢ん付いちょらん所謂髪を、ね、それも粋なふうにま、捏ねておるというのですから、ね、その髪が本当に結い上げられなければならない。その結い上げると云う事の為にです、私共がどうでも明日の報徳祭を迎えさせて頂く姿勢と云う物を、それぞれに考えなければいけない。
どういう姿勢を持つ今申します、四神様が九州の大恩人なら、三代金光様は合楽の大恩人なんだ、その大恩人お二方の報徳のお祭り、その徳に応え祀るお祭りであってみればです、どうあらなければならいかと、思わせて頂くのです。ね、そしてね、是はどうでも私どもの姿勢、今、合楽での姿勢と云う事は、ね、家族勢を揃えて信心をするという姿勢、しかも家族勢を揃えて、もう老いも若きも皆んながです、願いを一つに焦点を置いて五つの願いに、焦点を置いてです、ね、
神様の願い、神様のお心に添い奉ろうとしておると云う事を、もっともっとすっきりとした形でです、ね、明日は神様に見て頂くという、ね、家族勢を揃えた信心の姿と云う物を、見て頂くと云う事こそです、神様がお喜び下さる事であろう、それがお徳に答え奉る事であろうと言う風に私は思います。ね、おかげは受け徳、受け勝ち、この御教えこそ今の合楽で願われておる所の、願いが成就する事のおかげを受けた時初めて、おかげは受け徳、受け勝ちと云う事になるのではなかろうか。
この御教えから何とはなしに感じられる、とにかくおかげは受け儲け、と言った様なですね、いうならば、勝ち逃げ的なです、雰囲気てなものをちょっと感ずる。ね、ただ簡単にいうと、だからそう云う事ではさらさらない。愈々私どもが助からなければ、神様も助かっては下さらない。親が助かり子供が安心、子供が助かり親も安心で御座いますからと、そういう私共は助かりを願わせて貰う。
ご神前に額ずく度にこの五つの願いをさして貰う。しかもその五つの願いというのは、昨日の朝のご理解の様に、今月今日で一心に和賀心で頼むと云う事、和賀心というのは和賀心というのは、本当に信心を頂いておって良かった、合楽に御神縁を頂いて、頂いておって良かったと思う心で是を願わにゃいけん。もう思やぁもう思や思う程おかげを頂いて有難いと思うとりますというだけに腰掛とってはならない。
本当に有難いと思いますという心で、神の願いである所の五つの願いを願わなければならなんというのです。ね、所謂白鶴白鶴願い酒と云う事を、今朝の私ご祈念中に頂いて、ね、有難き勿体無き畏れ多き、という所謂有難い心を持って愈々願いに願い願いぬいて行かなければならない。まぁだ明日の御大祭になら、髪も洗うていない。自分の心もすっきりとしていなというなら、まず一つ洗わなければいけません。ね、
そして明日の御大祭のそれを、結い上げさせて頂く所の姿勢を、作らなければいけません。しかもそれは家族勢を揃えて、家族中で此処の所を願えれる、その事がお礼申し上げられるものを持てです、ね、明日の徳にお答え申し上げる、ね、四神金光様、三代金光様のお二方の神様にです、お礼を申し上げる、お徳に応え奉るというのは、そういう私共の現在合楽に言われておる信心を持って、ね、報徳祭に、報徳祭を仕え奉る所の姿勢にしたいと思うので御座います。
どうぞ。